戦争の悲惨さと平和の大切さ
戦争体験の次世代への継承
令和2年に総務省が公表した人口推計によると、日本の人口のうち、戦中・戦前生まれが占める割合は約15%となっており、昭和から平成、令和へと時代が移る中、戦争を体験していない世代が多数を占めるようになってきています。
戦争が「記憶」から「歴史」に変わりつつある中、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さや平和の大切さを次世代に伝えていく必要があります。
このページでは、太平洋戦争における本県関係戦没者22,076柱(R5.10現在)を慰霊するため、昭和41年に沖縄県島尻郡八重瀬町の具志頭城跡に建立した「甲斐の塔」をはじめ、山梨県護国神社内に設置した「県下戦没者納骨堂」、昭和20年7月の甲府空襲の概況、県内にある戦争遺跡などを紹介しております。
後段には、一般財団法人山梨県遺族会女性部が戦後75年を節目に発行した「戦地からのたより」や、戦没者の妻たちが戦後を生き抜いた体験を綴った「過ぎし日に想いをよせて(H14.10発行)」、戦争遺児が父母への想いを綴った「平和の尊さをかみしめて」の2冊をまとめた「戦争を知らない世代へ」に寄稿された文章の一部を紹介しましたので、是非ご覧ください。
⇒ リーフレットはこちら(PDF:296KB)
目 次
1 『甲斐の塔』について
2 『県下戦没者納骨堂』について
3 戦争の悲惨さと平和の大切さを次の世代に(戦没者遺族による語り部)
4 甲府空襲、戦争遺跡等
5 県政出張講座のご案内
6 戦地からのたより((一財)山梨県遺族会・寄稿集)
7 戦争を知らない世代へ((一財)山梨県遺族会・寄稿集)
8 リンク集(厚生労働省「遺骨収集事業」、総務省「子どもと学ぶ太平洋戦争」等)
『甲斐の塔』について
甲斐の塔
塔建立の経緯
「甲斐の塔」は、太平洋戦争における本県関係戦没者22,075柱(令和4年9月現在)を慰霊するため、沖縄県島尻郡八重瀬町(旧具志頭村)の具志頭城跡に昭和41年11月8日、「山梨県出身大東亜戦争戦没者慰霊塔建設委員会」が、県助成金・市町村拠出金・寄付金等の資金を基に敷地761㎡を購入し、本県産の原石を用いて建立したものです。
以来、『甲斐の塔維持管理委員会』(県、県議会、市長会、町村会、市議会議長会、町村議会議長会、県遺族会の7団体で構成)が維持管理にあたり、毎年11月8日を「甲斐の塔」慰霊巡拝の日と定め、遺族代表と関係者により碑前で慰霊祭を行っています。
当地選定の経緯
八重瀬町(旧具志頭村)は山梨県出身の戦没者が多かったところです。そこで、山梨県南巨摩郡身延町(旧中富町)中山出身の山中幸作氏が私費を投じ、昭和28年6月15日、当時の天野久山梨県知事の筆になる石碑を当地に建立し、沖縄戦で戦死した山梨県出身者の慰霊祭を行いました。こうした経緯から当地が選定されたもので、この石碑は現在も「甲斐の塔」の敷地内にあります。
同氏は建設会社の社員として沖縄に滞在中、慰霊のため、この石碑を含む5基の供養塔を各地に建立しました。その後、同氏は昭和33年にご逝去されましたが、山梨県では、その功績を讃え昭和39年に感謝状を贈呈しています。
甲斐の塔の周辺
甲斐の塔に向かって左後方に山中幸作氏建立の「慰霊塔」、右後方に同氏が糸満市に建立し、昭和55年に県が移設した「慰霊塔」(前記5基の1つ)があります。
更に、後方には、独立混成第44旅団の残存部隊が玉砕し、散在していた10,150柱を旧具志頭村の村民が収骨、埋葬して建立した「魄粋の塔」があります。また、甲斐の塔と反対側には、高知県の「土佐の塔」があります。
沖縄県
令和5年度 甲斐の塔慰霊祭
令和5年11月8日(水)午前10時より、沖縄県八重瀬町「甲斐の塔」前において、慰霊祭が行われました。
『県下戦没者納骨堂』について
戦没者納骨堂
建設の経緯
・戦没者納骨堂は、戦没者を慰霊するため、日中戦争以降の遺骨を連帯区司令部が分骨して陸軍墓地に納めたことが始まりです。
・昭和20年、現在のつつじが崎霊園の中央(現在、レイテ島慰霊碑がある)に建設が決まり、完成をみないまま終戦となりました。
・つつじが崎霊園は、戦後陸軍省から大蔵省に移管され、昭和38年に甲府市に払い下げられました。以来、戦没者納骨堂の祭祀・維持管理は、関係者の協力を得ながら県が行っています。
・木造の納骨堂が老朽化するとともに、甲府市から移転の要望があったため、終戦30年記念事業として県が予算措置し、昭和50年11月着工、翌年3月、現在地(護国神社内)に完成しました。
納骨堂の概要
・場所:山梨県護国神社内(甲府市岩窪町608)
・RC造平屋建 30.25㎡ ※敷地357㎡は借地
・納骨数 5,344柱
納骨堂の維持管理
・清掃、定期巡回、植栽木管理(委託先:護国神社)
戦争の悲惨さと平和の大切さを次の世代に(戦没者遺族による語り部)
1 語り部:眞壁 靜夫 様(韮崎市在住、昭和17年生まれ)
『聞き伝えよう、若者に』 ~韮崎市遺族会の活動を通じて~
2 語り部:杉原 五十子 様(笛吹市在住、昭和18年生まれ)、山田 進作 様(笛吹市在住、昭和18年生まれ)
『同じ星を見ていた父と母』 ~アメリカから戻ってきた父の日章旗~
平和の語り部事業
・一般社団法人山梨県遺族会は、一般社団法人日本遺族会とともに「平和の語り部事業」を実施しています。
・この事業は、地元の小中学校等からの依頼を受けて、遺族会の会員が、戦中・戦後の体験や過酷な生活状況を、後世に語り継ぐことを目的としています。
〇平和の語り部講座の様子(R6.7.30中央市在住の小学4年生~中学3年生)
平和の語り部遺族会会長
(講師:山梨県遺族会 事務局長 樋口様)
中央市遺族会会員
(講師:中央市遺族会 藤田美智子様)
県政出張講座のご案内(テーマ:戦争の悲惨さと平和の大切さ)
・県民の皆様が県政について知っていただく「県政出張講座」の新規テーマとして、「戦争の悲惨さと平和の大切さ」を設けました。
・希望する日のおおむね1ヶ月前までに「県政出張講座申込書」に必要事項を記入のうえ、郵便、ファクス、電子メールまたは持参して、県庁広聴広報グループ、もしくはお近くの地域県民センターへお申し込みください。
⇒ お申し込みはこちら
・テーマNo.89 「戦争の悲惨さと平和の大切さ」
○県政出張講座の様子(R4.9.2 市川三里町立市川小学校)
風景1
(講師:山梨県遺族会 事務局長 樋口様)
風景2
(講師:山梨県遺族会 鈴木俊子様)
甲府空襲、戦争遺跡等
甲府空襲
・太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月6日夜から7月7日にかけて、グアムのマリアナ基地から飛び立った131機のアメリカ軍B-29爆撃機による甲府への爆撃がありました。これを甲府空襲といいますが、7月6日23時47分~7日1時48分にかけて空襲がありました。
・甲府市内は火の海となり、市街地の約74%が焼き尽くされました。負傷者 は1,239名、被害戸数18,094戸でした。また1974年(昭和49年)7月に行われた調査では、死者は1,127名とされています。
⇒ 甲府市における戦災の状況(総務省ホームページへ)
戦争遺跡
山梨市の地下壕
・山梨県は第2次世界大戦末期に軍事施設や軍需工場の疎開地となり、多くの戦争に関連して造られた施設があり、現在知られているだけで50か所を越える戦争遺跡が残っています。山梨市の万力公園の北側にある小山の斜面に残る2か所の兵器貯蔵庫の地下壕もその一つです。
地下壕
⇒ リンク先(山梨県埋蔵文化財センター)
戦地からのたより(一般財団法人山梨県遺族会 寄稿集より抜粋)
戦地からのたより
・「戦地からのたより」は、(一財)山梨県遺族会女性部が中心となり、戦後七十五年を記念して、戦没した父が家族に宛てた手紙を集めて編集したものです。女性部では「悲惨な戦争を二度と繰り返さず、私達のような戦争遺族が出ないように」との考えや、貴重な資料を後世に残したい、との想いから、遺族の了解をいただき「たより」を募集し出版することとなったものです。
・手紙のほとんどが軍事郵便と印刷された葉書で、内容は全て検閲を受け、上官の印鑑が押されています。葉書一面に小さな文字で家族への想いがびっしり書かれています。封書のものは全体の2割程度でした。
・「戦地からのたより」は県立図書館をはじめ、市町村の図書館へも寄贈されています。ご興味のある方は、冊子を手に取って御覧下さい。
⇒ リンク先はこちら
<冊子に関するお問い合わせ>
一般財団法人山梨県遺族会 事務局 055-252-7664
<このページに関するお問い合わせ>
山梨県福祉保健部国保援護課 援護恩給担当 055-223-1454
戦争を知らない世代へ(一般財団法人山梨県遺族会 寄稿集より抜粋)
過ぎし日に想いをよせて
平和の尊さをかみしめて
・「戦争を知らない世代へ」は一般財団法人山梨県遺族会及び同女性部が、戦没者の妻たちが戦後を生き抜いた体験を綴った「過ぎし日に想いをよせて」(H14.10発行)と、戦争遺児が父母への想いを綴った「平和の尊さをかみしめて」(H23.8発行)の2冊を再版し、合冊したものです。
・戦争を知らない世代が多数を占めるようになった今、悲惨な戦争が20世紀前半にあったことの証として、次世代へ語り継ぎ、世界の恒久平和の実現を図ることが遺族たちに課せられた使命である、との考え方からこの冊子を作成する事業が企画されました。
・「戦争を知らない世代へ」は、県立図書館をはじめ、市町村の図書館へも寄贈されています。ご興味のある方は、冊子を手に取って御覧下さい。
⇒ リンク先はこちら
<冊子に関するお問い合わせ>
一般財団法人山梨県遺族会 事務局 055-252-7664
<このページに関するお問い合わせ>
山梨県福祉保健部国保援護課 援護恩給担当 055-223-1454
リンク集
遺骨収集事業(厚生労働省へのリンク)
・厚生労働省が担う援護行政は、終戦に伴う引揚者対策に始まり、その後、戦傷病者及び戦没者遺族等の援護などの問題に対応しつつ、種々の変遷を経て、今もなお、戦争によって残された問題の解決に取り組んでいます。その一環として先の大戦による戦没者の遺骨収集事業を国の責務として実施しています。
⇒ リンク先へ
子どもと学ぶ太平洋戦争(総務省へのリンク)
・太平洋戦争時の子ども達の生活や体験したことを、おじいちゃんやおばあちゃんが現代の子ども達に語りかける様子がイラストレーションで分かりやすく説明しています。
⇒ リンク先へ
まんが子ども太平洋戦争物語(総務省へのリンク)
・痛ましい戦災の記憶、傷跡も歳月の経過とともに風化し、忘れられようとしています。子どもの視点から戦時下の一般の市民の生活の様子、空襲などの戦災の事実を現代の同じ年齢層に知っていただくため、総務省では平成19年度までは旧(社)日本戦災遺族会(H22.3.31解散)に委託し、平成20年度から22年度までは企画競争による委託事業として、冊子(まんが)を作成し、全国の小学校等に配布しました。
※まんがを配布する際には許諾が必要となりますので、注意して下さい。
⇒ リンク先へ
戦災に関するビデオ(総務省へのリンク)
・空襲を受けた各都市にスポットをあて、戦災の事実を今日の人々に知っていただくため、総務省では、平成21年度までは旧(社)日本戦災遺族会(H22.3.31解散)に委託してビデオを作成し、全国の図書館及び視聴覚ライブラリー等に配布していました。平成22年度から平成25年度までは企画競争による委託事業としてビデオを作成し、ホームページ上で公開しています。
⇒ リンク先へ
県内の追悼式(総務省へのリンク)
・山梨県立都留高等学校同窓会による「遺髪塚追悼法要」が掲載されています。
⇒ リンク先へ
県内の追悼施設(総務省へのリンク)
・(甲府市)いしずえ地蔵尊
・(甲府市)戦災殉難者無縁佛供養碑
・(富士吉田市)武蔵航空工場被爆殉難者之碑
・(大月市)遺髪塚
⇒ リンク先へ
山梨県立博物館の展示案内「山梨と戦争」
・県立博物館において、山梨の人々が経験した戦争について、その実態や悲惨さを紹介するとともに、戦争という状況におかれた人々や、現在でも絶えることのない戦争について考える材料を提示しています。
⇒ リンク先へ
このページに関するお問い合わせ先
山梨県福祉保健部国保援護課 担当:援護恩給担当
住所:〒400-8501 甲府市丸の内1-6-1
電話番号:055(223)1454 ファクス番号:055(223)1468
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戦争遺跡
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戦争遺跡の例。日本最大級の掩体壕である横浜市の野島掩体壕。
戦争遺跡(せんそういせき)は、戦争の痕跡、戦跡、戦蹟。戦争のために造られた施設や、戦争で被害を受けた建物などで、現在もそのままないし遺構として残っているものを含む。かつての戦争の時代を物語る遺跡であり、後世に伝えることで歴史の生きた教材になりうる。
概要[編集]
戦争は古代史から近代史まで歴史学の研究の対象とされてきた[1]。一方、モノを扱う考古学は比較的新しい学問であり、考古学が確立された20世紀の遺構は同時代史となることから長らく研究対象とはされなかった[1]。しかし、戦争にかかわる遺構は戦争をビジュアルで知る上で重要と考えられるようになり、1980年代に入って保存を求める声が上がるようになった[1]。
古代から近世にかけての遺跡にも戦争に係るものが多くあるが、これらはもともと歴史学や考古学の研究のために必要に応じて保護されてきており「戦争遺跡」と括る必要はなかった[1]。「戦争遺跡」は調査研究や保護措置が未だ十分に行われていない近代以降の戦争に係る遺跡の保存の重要性からこう呼ばれるようになったものともいえる[2]。
日本には平和博物館が100以上あるが、欧米ではとても少なく、海外では軍事博物館が主流となっており、自国の軍事行動を礼賛するかたちで、加害の部分にはあまり目を向けない傾向がある[3]。行政学の十菱駿武(戦争遺跡ネットワーク)は、「加害と被害を平等に取り上げ過去の歴史から学び平和の問題を考える視点があるのは中国や韓国だが、両国を除けばフランス、ドイツ、ベルギー、オランダぐらいである」と述べている[3]。
日本における戦争遺跡[編集]
日本には全国におよそ2万から3万か所の戦争遺跡があるといわれ[3]、1980年代半ば頃から、戦争体験を伝える一環として、各地の戦争遺跡の調査や記録、保存運動などが行われてきており、1987年に戦争体験を記録する会『大阪の戦争遺跡ガイドブック』も刊行されている。区分としては「役所や学校などの自治体施設・研究施設・軍隊の駐屯地や演習場跡」・「要塞・飛行場・砲台などの戦闘施設と設備跡」・「軍需工場や軍事物資貯蔵施設跡」・「鉄道・道路・港湾などの公共交通流通のための人工構造物跡」・「病院や保養所・捕虜収容のための施設跡」・「陸海軍埋葬地や墓地」・「防空壕跡や慰霊碑」・「戦跡・空襲被害地や場所」などがある[4]。
公益質屋跡(伊江島)
自治体による文化財指定の最古は1977年の沖縄県伊江島公益質屋(戦争で被災)の指定である。戦争に使われた遺跡という類では南風原町の沖縄陸軍病院南風原壕群20号が1990年(平成2年)に全国で初めての自治体指定文化財となった。太平洋戦争に関する国指定の史跡は少ない。
戦争遺跡が文化財の指定を多く受ける流れに変化したのは、戦後50年を経た1995年だったという[3]。戦争体験者が減り、戦争の記憶を語り継ぐ語り部が「ひと」から「もの」へと移行する中で、戦争遺跡の保存・活用の流れが強まった。また戦争遺跡が都市開発などによって消滅するスピードが速まり、歴史の証人である戦争遺跡を失えば、平和の価値や未来への指針もわからなくなるという危機感から、「戦争遺跡ネットワーク」が結成されるなどの動きも生じ、文化財指定も広がった[3]。
指定を受けたものには、第二次世界大戦期のものが多いが、西南戦争の戦跡なども含まれる。近年では保存措置が講じられたり、文化財として指定される事例も出ている。しかしながら、その価値が十分に理解されているとは言えず、特に近世の建築遺構と戦争遺跡がかち合う場合、戦争遺跡の調査・保存が軽視されがちなのも事実である。 1995年に原爆ドームが国の史跡に指定され世界遺産にもなっている。軍事遺構としては初めて東京湾要塞跡(明治時代)が2015年に国の史跡に指定されている。
しかし一方で、毎日新聞社が2019年10月から11月にかけて日本の全都道府県に対しアンケート調査を実施したところ、自治体内の全ての戦争遺跡の所在地や概要を把握する全数調査を実施したのが6つの県にとどまることが明らかになり、日本において戦争体験の風化が進む中、自治体が戦争遺跡の保護に及び腰になっていることと、戦争遺跡の全体像の把握が進んでいない現状が浮き彫りとなっている[5]。
戦跡[編集]
沖縄戦跡国定公園
安脚場戦跡公園
近現代の軍事遺跡[編集]
軍事関係施設
近衛師団司令部庁舎(東京国立近代美術館工芸館)(国史跡)
猿島砲台(東京湾要塞(軍事施設としては初の国の史跡))
満州開拓青少年義勇軍訓練所
帝国陸軍大阪第四師団司令部庁舎(大阪城公園内)
大阪砲兵工廠
帝国陸軍姫路第十師団兵器・被服庫(現姫路市立美術館国宝姫路城内)
海軍兵学校
善通寺偕行社(国史跡)
支那囲壁砲台(登録有形文化財)
金沢陸軍兵器支廠(石川県歴史博物館)(国史跡)
第九師団司令部(石川県庁舎石引分室)
大湊海軍通信隊根室分遣所(根室市歴史と自然の資料館)
歩兵第4連隊兵舎(仙台市史跡)
旧呉海軍工廠塔時計(市有形文化財)
旧弘前偕行社(重要文化財)
旧呉鎮守府司令長官官舎(重要文化財)
舞鶴旧鎮守府倉庫施設 舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫(重要文化財)
鹿島海軍航空隊本部庁舎(大山湖畔公園として整備中)
筑波海軍航空隊司令部庁舎(筑波海軍航空隊記念館)
照空隊陣地
舞岡熊之堂遺跡:陸軍第12方面軍・高射第1師団・第117連隊・第3大隊・第14中隊の照空隊陣地(宮根陣地)跡(神奈川県横浜市戸塚区)
軍事関連施設遺跡[編集]
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(非現存)
軍事工場
里山辺地下工場・中山半地下工場(長野県松本市)
上田地下飛行機工場(長野県上田市)
鶉野飛行場及び川西航空機姫路製作所鶉野工場(兵庫県加西市)
旧東京第二陸軍造兵廠 香里製造所煙突(枚方市史跡)
東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡(国の史跡)
宇品陸軍糧秣支廠缶詰工場(広島市文化財)
多摩火薬製造所跡
豊川海軍工廠旧第一火薬庫・旧第三信管置場(豊川市史跡)(愛知県豊川市豊川海軍工廠平和公園)
防空壕・地下坑道など
松代大本営跡
浅川地下壕
日吉台地下壕
タチソ(中部軍司令部/川崎航空機の高槻地下工場として建設が進められたトンネル群。大阪府高槻市成合)
沖縄陸軍病院南風原壕群20号(初の自治体指定の太平洋戦争史跡)
みどり市防空監視哨跡(東村時代に村指定文化財)
赤山地下壕跡(千葉県館山市)
掩体壕(複数が文化財指定されている)
野島掩体壕 - 日本最大級の巨大掩体壕(※文化財は未指定)
前浜掩体群 - 高知県南国市の史跡に指定
神風特別攻撃隊関連
熊谷陸軍飛行学校桶川分教場(桶川市指定文化財)
その他
板東俘虜収容所(国史跡)
被災建造物・記念物[編集]
旧日立航空機立川工場変電所(東大和市史跡)
半田赤レンガ建物
原爆ドーム(国史跡)
長崎原爆遺跡(国史跡)
ひめゆりの塔
その他はCategory:日本の軍事遺跡一覧を参照。
アメリカ合衆国の戦争遺跡[編集]
アサン・ビーチ(グアム)
ガアン・ポイント(グアム)
スマトラ(インドネシア)の戦争遺跡[編集]
「日本の穴」現地では戦時中日本軍の作った防衛用のトンネル、トーチカ、塹壕などをlubang japang(日本の穴)と総称する。
パダンの「日本の穴」
メダンの「日本の穴」紘原神社趾
バトゥバラの「日本の穴」
脚注[編集]
[脚注の使い方]
^ a b c d 伊藤 厚史『学芸員と歩く 愛知・名古屋の戦争遺跡』2016年、名古屋市教育委員会、六一書房、6頁
^ 伊藤 厚史『学芸員と歩く 愛知・名古屋の戦争遺跡』2016年、名古屋市教育委員会、六一書房、6-7頁
^ a b c d e 稗田和博「すその広い戦争遺跡保存運動、学術的、歴史的な価値いかし、町づくりへも」『ビッグイシュー日本版』第124号、有限会社ビッグイシュー日本、大阪市、2009年8月1日、16頁、2017年5月17日閲覧。
^ 「戦争遺跡」『日本大百科全書』小学館。
^ 消える戦争遺跡 全数調査6県のみ 全体像把握進まず 毎日新聞調査 毎日新聞 2019年12月7日
参考文献[編集]
十菱駿武・菊池実(編集)『しらべる戦争遺跡の事典』柏書房、2002年6月。ISBN 4760122168
十菱駿武・菊池実(編集)『続 しらべる戦争遺跡の事典』柏書房、2003年6月。ISBN 4760123903
福間 良明『「戦跡」の戦後史――せめぎあう遺構とモニュメント』 (岩波現代全書)ISBN4000291726
菊池 実『近代日本の戦争遺跡―戦跡考古学の調査と研究』(青木書店)ISBN4250205223
関連項目[編集]
軍事史
忠霊塔
ダークツーリズム
負の世界遺産
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表話編歴
考古学
隠す
表話編歴
日本の文化財
有形文化財
国宝 一覧絵画彫刻重要文化財 一覧登録有形文化財 一覧
無形文化財
重要無形文化財 人間国宝登録無形文化財記録作成等の措置を講ずべき無形文化財
民俗文化財
重要有形民俗文化財重要無形民俗文化財登録有形民俗文化財登録無形民俗文化財記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
記念物
特別史跡 一覧史跡 一
Copilot が送信しました:
戦争遺跡は、戦争の痕跡や戦跡を指し、戦争のために造られた施設や被害を受けた建物などが含まれます。これらは歴史の生きた教材として後世に伝えることができます。
概要
戦争は古代から近代まで歴史学の研究対象とされてきましたが、考古学が確立された20世紀の遺構は長らく研究対象外でした。しかし、1980年代に入り、戦争遺構の保存の重要性が認識されるようになりました。
日本における戦争遺跡
日本には約2万から3万か所の戦争遺跡があり、1980年代半ばから調査や保存運動が行われています。戦争遺跡は、自治体施設や軍事施設、公共交通施設、病院や保養所、防空壕など多岐にわたります。
文化財指定
1977年に沖縄県伊江島の公益質屋が文化財指定を受けたのが最古の例です。戦後50年を経た1995年からは、戦争遺跡の保存・活用の流れが強まり、文化財指定も広がりました。
課題
戦争遺跡の全数調査を実施した自治体は少なく、戦争体験の風化が進む中で、戦争遺跡の保護が十分に行われていない現状があります。
戦争遺跡は、平和の価値や未来への指針を考える上で重要な役割を果たしています。
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