武田不動尊 武田信玄生誕500年 「こぴっと」でまなぶ
恵林寺 古川周賢住職のれいわ寺子屋① 生誕500年に大きな発見 不動尊が信玄公の姿!?
皆さんこんにちは「れいは寺子屋」を始めることといたします。
まず最初に自己紹介をしましょう。私は甲州市塩山小屋敷にある臨済宗妙心寺派のお寺乾徳山恵林寺の住職古川周賢と申します。
恵林寺といえば、何よりもまず、武田信玄公ですね。信玄公は自分がこの世を去った後、お墓を作る場所として恵林寺を選びました。進行が亡くなってからもうすぐ450年になりますがこんなに長い年月が経った今でも信玄公はたくさんの人の尊敬を集めていて恵林寺にも大勢の形がお参りに来られます。
今年は信玄公が生まれてから、ちょうど500年の記念の年です。そしてついこの間恵林寺にお祀りしてある「不動明王(お不動さん)」の木造にない発見がありました。
実はこの木造には昔から伝えられている伝説があります。それは、信玄公が京都から仏師と言って、仏像を彫る専門家を呼んで、自分の向かい側に座らせて、自分の姿を等身大で映して、それを不動さんの像にした。というものです。
だからこのお不動さんは信玄公生き写しの「武田不動尊」として大切にお寺で守られてきたのです。
仏像の専門家が、このお不動さんのおなかの中に、お医者さんが使う「ファイバースコープ」という、胃袋の中を検査するカメラを入れてみたところ、木造を作った 「康住」という人のなと、作られた「元亀3年4月」という年月が墨ではっきりと書いてありました。
元亀3年(1572年)は、信玄公は亡くなる前の年に当たります。恵林寺の「武田不動尊」は、本当に侵入口の姿を写したのかもしれないですね。
「武田不動尊」には4月14日から5月10日に県立博物館で会うことができます。 ぜひ訪ねてみてください。 【現在2021年5月19日なのですでに終わっています。】
武田信玄の菩提寺である恵林寺(甲州市)古川周賢住職が生きるヒントや学びの大切さを伝えます。
恵林寺 古川周賢住職のれいわ寺子屋② 信仰の強さの秘密お坊さんから「孫氏」学ぶ
前回はこの「れいわ寺子屋」の舞台となる恵林寺と今年生誕500年の記念の年となる武田信玄公そして信仰の姿を映した「武田不動尊」のことを学びました。
今回は主人公の事をもう少しご紹介したいと思います。皆さんは新元号にどんなイメージを持っていますか?多くの人は「甲斐の虎」(戦国最強)という言葉を思い浮かべると思います。
確かに最強の「武田騎馬軍団」を率いた信玄公は戦に強かったですね。これは誰もが認める事実です。
だけれども、今日はそれとは違う信玄公のことを知ってもらいたいと思います。それはどういう姿でしょうか・・・・。
「文武両道」と言いますが、これはまさしく信玄公の為にあるような言葉です。信玄公は、幼い頃から当時の最高のお坊さんについて勉強をしています。今のように学校という仕組みがなかった時代ですから、漢詩や漢文を得意としている禅のお坊さんから、歴史や思想、文学、さらには戦のための「兵法書」など、色々なことを学んだのです。
信玄公といえば「風林火山」の旗指物が有名ですね。
「疾きこと風の如く、静かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」とありますが、これは「孫氏の兵法」と呼ばれるもので紀元前500年頃、戦乱に明け暮れる中国の春秋戦国時代の兵法書で孫武という人が書いたものです 。
「孫氏」は深い内容の本で今でも世界中で愛読されています。これを読みこなして実際の戦に生かすには、若い頃から真剣に一生懸命学んでいなければとてもできません。運動神経が良かったり喧嘩が強かったりするだけでは一流にはなれません。信玄公は真剣に学んだから強かったのです。
恵林寺 古川周賢住職のれいわ寺子屋③ 信玄公は和歌も一流 芸術で心豊かに
前回は武田信玄公が「学びの人」だったということを紹介しました。今回のその続きです。たくさんの優れた武将たちが互いに競い合っていた戦国時代は、ただ低さに強いというだけでは生き抜くことができません。自分の弱点や限界を知ったら、知恵を使ってそれを補っていくのです。そのためには学びが必要なのです。
実は、禅もお坊さんに学ぶ、ということは、信玄公だけではなく、たくさんの武将がやっていることです。徳川家康も、上杉謙信も、仏教嫌いと言われた織田信長でさえも、禅のお坊さんと深い繋がりがあるのです。「学ぶ」ということはとても大切なことです。
苦手だ、などと言っていたら立派な仕事はできません。どんなことにでも取り組んで、一生懸命学ぶ人であれば、みんなが信頼し協力してくれるのです。
さて信玄公 は、戦国時代どころか日本の歴史の中で、最もよく学んだ人と言えます。信玄公は、戦や政ことだけではなく和歌や漢文にも親しみ、 茶の湯をたしなみ、芸術のことを深く知っておられたのです。
信仰はお坊さんから漢詩や漢文を学ぶだけではなく、京都からお公家さんを招いて和歌や蓮歌の会を開いています。桜の花見の席で見事な和歌を読んで、その場で墨をすってサラサラと筆で書いた、というエピソードも残っています。この時の桜の詩は信玄公が亡くなって何年も経った後でも、禅の先生だった快川紹喜国師(当時の恵林寺住職)「今も耳の底に残っている」と褒め称えるほどの出来だったといいます。
芸術は心を豊かにしてくれます。辛い時、悲しいとき、孤独や不安に押しつぶされそうな時、芸術は心を安らかにしてくれるのです。今も尊敬される信玄公の素晴らしさは芸術を学ぶことによって育まれたと言ってよいのです。
古川 周賢老大師ふるかわ・しゅうけん
臨済宗妙心寺派 乾徳山恵林寺 住職
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を修了、博士号取得。平成9年京都紫野大徳寺専門道場に掛搭。平成23年山梨県甲州市塩山妙心寺派乾徳山恵林寺副住職、同26年住職に就任。各地の講演会で禅について、また禅僧の観点から社会問題について熱く語り、恵林寺の坐禅会には遠方からも参加者が集まる。2016年 NHK SWITCHインタビュー達人達「立川談春×古川周賢」出演。
(http://www.sekigaku-agora.net/index.html agora さんから引用しました)
(山日小中学生新聞 週刊こぴっと 2021年4月8日、4月22日、 5月13日 を参照しています)
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